『鈴なり星』の雑記

こちらは『鈴なり星』の平安時代物語や創作小説以外のブログです

『死者のゆくえ』読了

ようやく読了。
太古から続く日本人の死生観がちょっとだけわかった気がします。
結論から言えば、太古から「ここだけは変わらない」という死後の世界の観念てないようです。

現在、死者は骨になったあと、その所在を示す石塔=お墓に入ります。死者の魂は骨が納められている墓を離れることなくそこに留まり続けねばならないのです。
なぜかというと、中世以降、遺体や遺骨に対する見方が再び大きく転換したからです。
永続的に受け継がれるイエ制度が庶民層まで広がり、現在でもお馴染みの『○○家の墓』なるイエの墓地が一般化したからです。死者の霊魂は遺骨に留まるイエの祖霊となって、子孫を見守るという役目を課せられたわけです。
生者は、死者がきちんと眠り続けられることができるように、定期的にその場所を訪れ祈りを捧げる義務(お盆など)ができました。「おじいちゃんが草葉の陰で泣いてるぞ」なんて言う慣用句(?)はここらへんから生まれたのかも。死者が指定されたお墓で安らかに眠るためには何をすればいいか。ここから、葬儀形式=納棺・埋葬方法・供養の作法が事細かに規定されていったといいます。

遺骸や遺骨を放置して顧みることのなかった平安人。遺骨を霊場や共同墓地まで運んだ中世の人々。その中世人でさえ、一度遺骨を霊場に納めてしまえば、霊魂の浄土往生完了したということで、もはや遺骨のゆくえがどうなろうと関心はなかったといいます。
そして、イエの墓を造って骨を納め、定期的に墓参を繰り返した近世以降の人々。
現代人の遺骨に対するこだわりは、遺体を放置するのを是とした平安人には理解できないだろうし、遺骨にいつまでも死者の魂が宿り我々子孫を見守り続けてくれるという現代人の感覚も、遠い浄土への旅立ちをひたすら願った中世人には理解できないでしょう。遺体をポイして終わりという平安人の感覚が、我々に理解できないと同じく。

しかし現代人のそれらの感覚でさえ日々進化している、と著者は言っています。
遺骨を装飾品(ダイヤモンドとか)として身近に置いてみたり、仏壇をリビングに置きやすいようにコンパクト化したり、墓地の管理が大変なので、マンションみたいな共同墓地(遺骨を納めるところ)に納めてお寺に管理してもらったり。
物事をコンパクト化、インスタント化するのに、日本人てあまり心理的な抵抗感はないようです。

自分の感覚としては、お墓に遺骨とともに魂を縛られたくないですねー。
死んだんだから、さっさと解放してくれよってカンジです。
お墓に自分のホネをしまっとくから、やれ荒らされただの子孫がかまってくれないだので心霊本のネタになってしまうんじゃないか?とか思ってしまいます。
これはあくまで超個人的な感想であって、遺骨軽視しているわけじゃありません。