『鈴なり星』の雑記

こちらは『鈴なり星』の平安時代物語や創作小説以外のブログです

『色好みの構造』

 


『色好みの構造 中村真一郎著 岩波新書¥700』

平安文化と切っても切り離せない風習『色好み』。
けれどその『色好み』の概念も、物語や和歌をひも解いてゆくと、平安初期~中期~末期とその変遷ぶりはかなりのもの。

在原業平に代表される、本能のおもむくまま多淫の実践になんのやましさも感じない色好みがあった平安初期。

そんな日々是恋愛実践派の風流貴族の中で、一人一人と誠実につきあう光源氏のようなキャラが、理想の色好みを体現していると絶賛された平安中期。
あるいは『枕草子』で清少納言が好んだ、情熱とか肉欲とは無縁の、高度で知的な遊戯恋愛の愉しみこそが、真の色好みだとされた平安中期。

ここまでが平安文化最盛期であり、これ以降は時代が下るにつれ、先人の培った色好みの風習に逃げ込むような文化に移行していった、と著者は言います。

末法の世に突入したという悲観的な背景があるからなのでしょうが、業平や清少納言たちの謳歌した明るく楽しい精神の恋愛は消え、混沌&乱倫の人間関係にどっぷりな恋愛を貴族のみなさんはダラダラと続けていた模様。
まだ逢ったことのない仮想姫君を設定して切ない思いを和歌に詠んだり、浮舟を想う薫君になったつもりで和歌を詠んだりという、実際には経験していないことを人工的に再現するだけの、現代人からすれば精神衛生上大丈夫なのそれ?と心配したくなるような、何も発散しない抑圧的な文化になっていったようです。

兼好法師も『徒然草』で、
”男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは”
(恋愛って、セックスすることだけじゃないと思う)
”逢はで止みにし憂さを思ひ、長き夜を独り明かし、遠き雲居を思ひやり…”
(理想の女との忍ぶ恋に悶々と苦しむ自分を想像するのがいい)
とか言ってるので、平安末期は現実の女性と現実に恋愛するなんてナンセンス、という空気があったんじゃないでしょうか。

日々是恋愛実践派から脳内完結型恋愛まで、結局、
『愛の理想形は、その時代によってゼンゼン違う』
ということなんでしょうね。